世界のヒバクシャはいま

核兵器と原子力による被爆者・被曝者の権利回復運動についての情報サイト

 

フランス軍撤退後のサハラ核実験場後処理に従事した元アルジェリア軍兵士の証言

以下は、フランス軍が1967年にサハラ砂漠の核実験場から撤退したさいに実験場の管理権を引き継ぎ、汚染機材で被曝した元アルジェリア軍人M.A.ベンジェッバール氏の証言です。ベンジェッバール氏は、原水禁国民会議主催で2002年8月5日に広島で行われた「フランス核実験被害広島会議」にアルジェリア代表として出席し、アルジェリアのヒバクシャがフランス核実験被害者運動に、またひいては国際的なヒバクシャの運動の環に入るきっかけをつくりました。

 

モハメッド・アブデルハック・ベンジェッバール

ことの起こりは1967年5月初めに遡る。私は、レガヌ基地のインフラ整備を行う技術責任者に任命され、5、6名の派遣文民とともに 飛行機で元核実験サイトへ行き、1ヶ月滞在した。その間、電気設備、ボーリング、水処理施設などの空港施設を建設。フランス人と終始友好的な雰囲気で仕事をした。隊長の口から直に、フランス当局が、核実験に使った汚染の疑いのある機材や道具、機械類の地下埋設を2カ所のサイト(核実験関係者の後方駐屯地があった高原の北10 kmのサイトと爆心地から5 kmのサイト)で行っていたことを聞いた。高レベルの廃棄物は、数世紀はもつとされるコンクリートのブンカーに入れられたと見られる。

1967年7月末:フランス軍が撤退し、代わってアルジェリア国家人民軍(ANP)による監視が始まった。アルジェリア軍将校の決定で、手がかかりすぎる技術施設を解体し、発電所を、200人の需要を賄うだけの200kWに縮小するとともに、空港と一部のボーリング作業が中止になった。

1967年11月:私は、国境警備隊(マリ、ニジェール、モロッコ、モーリタニアとの国境警備)の兵舎建設および技術関係担当部隊の部隊長に就任した。

1970年11月:レガヌへ赴任し、電気および水道施設の更新を行った。到着したとき、大きな宗教団体の教祖を表敬訪問した。その際、教祖は、動植物や住民の健康に問題があり、核実験と関係があるのではないかと心配していると私にうち明けた。

 その数日後、レガヌから南750キロにあるティミアウイヌで、トゥアレグ・アザウェドの住民の種痘の治療と予防を担当していた医療グループ(EMDASM)と面会したが、そのさい、私はリーダーのアッゼディーヌ・イサッド医師とその助手で疫学者のナセール・ジェルール医師、カシという植物防護官に教祖の心配を伝えたが、医師たちも同じ認識で、理解できない病気を診たと語っていた。植物防護官は、ウイ‐ディールの農産物の収量が落ち、椰子園が枯れ始めているが、農民はそれを神の意志と思っている、と語った。

 アドラールに帰ったとき、私は、眼科医で、アルジェリア南部の風土病であるトラコーマの対策を行っているノルウェーのNGO「レッド・バルナ」の派遣団長をしているティル・フォルスト医師と知り合ったが、彼もまた、核実験場に隣接したクスルスの住民の間に特異な病気に気づいていたと語った。

1971年1月中旬:私はレガヌで民間のアドラール病院院長のルーレ医療隊長と、アルジェリア行政府の公用車の中で偶然会ったが、そのときC.ベシャールのフランス領事も同伴していたので、一通り挨拶した後、この地域にはフランス人が住んでいないが、観光で来たのかと聞いてみた。領事は、フランス石油会社(CFP)で働いているフランス人に会いにハンムディアへ行くところだと答えた。この石油会社へ行く道でレガヌを通るものは1本しかなく、彼らが向かっているという道は一度も聞いたことがない上に、危険地域として立ち入り禁止区域になっている爆心地へ石油を探しに行くのも妙な話だと私はいぶかった。そこで私は、酸素とアセチレンが足りないが、ふつう石油探索会社にはあるはずなので同行させてほしいと理由を付けて同行させてもらった。爆心地から数キロのところまで行くと、「CFP」と書いた看板のあるキャンプが設営されていて、いくつかのテントにヨーロッパ人職員ひとりと、ムザブ(800km)から来ているというアルジェリア人労働者が十人あまりいた。しかし、地質調査用の機材は一切なかった。私と部下のカルーはそこで食前酒と昼食を振る舞われたが、ガスボンベがなかったので、我々は一行と別れた。10キロの地点で、私は、その少し前に置かれたらしい大量のねじ曲がった機材を見た。これは後の19712月15日に、コリネ核研究所の技術者に提出されたサンプルだった。

1971年6月:私は、1971〜1972年の間、オラン地域の第2工兵隊工事監督部に異動になったが、体調を崩し入院することになった(私の病状について国防省工兵隊総局対外関係局と日本の専門家との間でやり取りがあった)。

19745月:当時のフランス・マイヨ軍中央病院に再入院。フランス人軍医に兵役不適格と診断され、100%の傷病軍人恩給を受けることになった。軍の診断書には次の記載があった。

  • 慢性直腸S状結腸炎
  • 末梢血管性脂肪肝
  • 生殖不能
  • 左肩硬直
  • 放射性金属no.688による被曝

1976年:回診のさいに、私の生殖不能は一過性のものと言われたので、私は妻帯し、女児がひとりできた。この娘アイシャは、生後初年から腎臓疾患を発症し、1984118日にフランス・ニースのランヴァル小児科病院で診察してもらったところ、腎臓が3つあり、うち2つに疾患があることが分かった。このため、同病院で切除手術を受けた。

1982年:妊娠6ヶ月の妻がアルジェリア・オランの聖アンヌ・オラン医院に入院。エコグラフィの結果、胎児が脳水腫、上肢萎縮、無性と診断され、医師は妊娠中絶を決めた。胎児は標本としてホルマリン漬けにされたと思う。

19857月:私は軍により、フランス・トゥールーズにあるラングイユ病院に転院され、リベ教授の科とブリュ教授が科長をしていた核医学科の患者となり、治療を受けたが、遺伝診断により、グラーヴ治療センターに送られた。そこの主任医師は、男の子をほしがっている私に、子供はつくらない方がいいと忠告した。私は怒って、トゥールーズ弁護士会のガブリエール・ガック・フォリ弁護士に会い、フランスおよびアルジェリア国家に対して損害賠償を求めることにしたが、無駄骨だった。

2002年:私は64歳になり、健康状態は非常に不安定だ。私の体には心臓ペースメーカーが埋め込まれており、進行性動脈炎と頻発性の蕁麻疹を患っている。

私の補佐で、私に同伴していたカルー・アメッド曹長は、1973年に急病で31歳の若さで死去している。彼は1971年にレガヌ工兵隊の区長に任ぜられたが、軍務以外では、危険を知らずに廃棄金属の回収業をしていた。

この問題に光を当てる体験を持ち、黙秘権を行使しないと思われる人としては、次の人がいる。

‐ レジュネ大佐:1962年までサハラのフランス軍医で、1964〜70年にC.ベシャール県の公衆衛生局長をしていた。

  • ルーレ医療大尉:1968〜72年に民間のアドラール病院長をしていた。
  • ボーデ軍医少尉候補生(フランス軍):タギー病院長。
  • ジョシオーム獣医(フランス軍):C.ベシャール県動物保健担当。
  • ミシュリ少佐:1960〜1966年の核実験中電気部長。ヴェルサイユ工兵隊高等技術学校教授。
  • フランス領事:1966年〜領事館閉鎖まで勤務。
  • ブリュ教授:トゥールーズのラングイユ病院核医学科長。彼は私に「バンジェバールさん、レガヌで我々はあなたに毒入りの贈り物を残して行ってしまったのですよ」と言った。
  • ナセール・ジェルール医師:WHOの疫学者で、1990年にアルジェリアのテロリズムを逃れ、現在マルセイユ在住。

Comments are closed.