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ポリネシア人元核実験労働者補償請求訴訟:フランス政府を裁く最終弁論、現地レポート

予告ページでもお伝えしましたが、2009年4月27日に、ポリネシアで初めてのフランス核実験元労働者による損害賠償請求訴訟の最終弁論が、パペエテ労働地方裁判所で行われました。この最終弁論は、裁判長と4名の陪審員の前で、初めて8人の原告が発言し、原告側・被告側双方の主張を闘わせるもので、裁判で最も重要な審議です。

裁判所前には、早朝から約400名の元核実験労働者やその支援者、地元報道陣らが詰めかけ、この問題への関心の高さを示しました。なかでも、日本の原水禁を代表して長崎原爆被爆者の奥村英二さん(長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会事務局長)が参加し、NHKが2組の報道班(NHKヨーロッパ総局とNHK広島)を送り込んだことは、今回の裁判が国際的にも注目を集めていることを内外に示し、被害者運動の意義に一段と重みを加えました。

以下は、奥村さんに通訳として同行した真下によるレポートです。

09年4月27日(月)朝6時45分。奥村英二さん、NHK広島の取材班とともに、パペエテ市中心にあるホテルを出発。モルロアと私たち協会のジョン・ドゥーム事務局長が「街のまん中にあるから便利だよ」と言って予約してくれたホテルだけに、ポリネシア自治政府の大統領府やポリネシア議会が建ちならぶプアヴァナア大通りまで徒歩で5分足らず。

元核実験労働者の健康被害に対する損害賠償請求訴訟は、労働裁判所で行われます[1]。といっても、独自の建物があるわけではなく、審議は一般の裁判所のなかで行われます。ポリネシアの自治権拡大合意の下で、各種権限の移譲が少しずつ進められていますが、外交、軍事、警察とならんで、司法権も依然としてフランス本国に帰属しています。最終弁論が行われるパペエテ裁判所は、大通りを挟んでポリネシア議会の対面にあります。早朝6時台というのに、裁判所の門前には、もう人だかりがしています。モルロアと私たち協会の会員が、大通りの並木に協会の横断幕を掛けています。

モルロアと私たち協会の横断幕を掲げる元仏核実験労働者たち
街路樹にモルロアと私たち協会の横断幕を掲げる元仏核実験労働者たち

その後も続々と人が集まってきます。やがてモルロアと私たち協会のジョン・ドゥーム事務局長がワゴン車で乗り付け、積んできた旗を降ろして配ると、集まった群衆にメガホンで話し始めました。すかさず、集まった内外の報道陣のカメラがレンズを向けます。タヒチ語なのでよく分かりませんが、ところどころに混じったフランス語から推測すると、今日の最終弁論のもつ意義や、今日の予定を説明しているようです。

ジョン・ドゥーム氏、今日の予定と意義を説明
ジョン・ドゥーム氏、メガホンで今日の予定と意義を説明

住民の95%が支持

そろそろ通勤ラッシュが始まる時間帯になり(タヒチでは朝が早く、たいていの店や会社は8時始業です)、プアヴァナア大通りを行き交う車やバイクも増えてきました。一様に、人だかりや横断幕を見て、「ああ、あれか」という顔で通り過ぎていきます。今朝のテレビやラジオのニュースでは、どの局も今日のこのイベントをトップや特集で予告していました。モルロアと私たち協会のローラン・オルダム代表は、早朝から各局を駆け回って、スタジオでのインタビューなどに大わらわだったそうです。

2002年7月に行われたモルロアと私たち協会の第1回総会に来たときは、フランス政府の傀儡的地域ボス、ガストン・フロス大統領の支配の下、核実験被害者の運動がニュースで取り上げられることも皆無でした。タヒチ市民も、弾圧を恐れて見て見ぬふりをする人が大多数でした。オルダム代表自身、公務員の職(彼はポリネシア自治政府の住宅局の職員です)を解雇されるのではないかと心配していて、モルロアと私たち協会の中心メンバーといっしょに食事に行ったときなども、「ローランがクビになったときに、会としてどうやって彼を支えていこうか」と、皆暗い顔で相談していたものです。それから7年でここまで来たことを思うと、感無量です。後で地元の人に聞いたところでは、いまではポリネシア住民の95%が核実験被害者の運動を支持しているということでした。

また、この日パペエテまで来ることができなかった他の島に住む支援者(多くの島では、他の島へ行く飛行機が週1、2便しかありません)が、自分たちの島で連帯のデモ行進をしたそうです。今回の裁判は、単に原告だけのものではなく、ポリネシアの住民全体を代表する裁判と受け止められているようです。

出勤するタヒチ市民の車やバイクが、裁判所の門が開くのを待つ元労働者と支援者たちを見ながら通り過ぎて行く。元労働者たちによると、今ではポリネシア住民の95%が元核実験労働者の運動に賛成しているという。
出勤するタヒチ市民の車やバイクが、裁判所の門が開くのを待つ元労働者と支援者たちを見ながら通り過ぎて行く。元労働者たちによると、今ではポリネシア住民の95%が実験被害者の運動に賛成しているという。

7時半、開門を前に、元核実験労働者の長老とおぼしき白髪頭にまっ白の立派な髭を蓄えた老人が、すでに400人ほどになっていた群衆に向かって、激しい口調のタヒチ語で語りかけています。時々聞こえるフランス語の単語から察するに、これまで被害者の実態を無視し、「フランスの核実験は安全」とウソの発表を繰り返してきたフランス政府を糾弾し、今後の闘いを鼓舞する演説のようでした。その後、集まった全員がタヒチ語で賛美歌を歌いました。歌いながら涙を流す人もいます。

気がつくと、オルダム・モルロアと私たち協会会長と原告側のジャン‐ピエール・テッソニエール弁護士が、後ろの方でそんなタヒチの人たちを見つめています。7時40分、裁判所の門が開き、皆ぞろぞろと入っていきます。テッソニエール弁護士も、オルダム代表とともにローラー付きの重そうなカバンを引きずりながら、後に続きます。カバンのなかには、原告8人分の資料が詰まっているのでしょう。法廷は、門を入って正面の建物の、広い階段を上った2階にある大法廷で行われることになっています。

裁判所も異例の対応

この最終弁論のために、パペエテ裁判所は200人の傍聴席をもつポリネシア最大の法廷を用意しました。傍聴席はすべて予約制で、傍聴券を持っている人たちが法廷の扉の両側に控えたガードマンのチェックを受けて中のベンチに座って行きます。奥村さんと私の席も、モルロアと私たち協会に予約してもらっていましたが、奥村さんの方は顔を見ただけで通されました。おそらく日本から被爆者が出席することがあらかじめ知らされていたのでしょう。私のときは「プレス?」と聞かれたので、適当にうなずくと、そのまま入れてもらえました。それでも、入りきれない傍聴人が扉の前のホールにあふれ、どよめいています。

開廷を待つ傍聴者たち
開廷を待つ傍聴者たち。手前は、長崎から参加した被爆者の奥村英二さん。

裁判長が開廷を宣言するまでは法廷内の撮影が許されていたので、NHKをはじめ内外の報道陣が写真やビデオを撮るために忙しく法廷内を駆け回っています。今回の裁判をポリネシアという世界の片隅のローカルな出来事に終わらせないために、モルロアと私たち協会はとくにフランス本国と外国のマスコミへの働きかけに力を入れました。今回、NHKがパリと広島から2組の取材班を送り込んだことは、その意味で大きな意味を持ちました。あとで聞いたところでは、イギリスのBBCやフランスのAFPもこの裁判のニュースを放送したそうです。しかし、フランス本国の国営放送局(フランスのテレビ局はすべて国営です)は「費用が出ないから」ということで、独自の取材班は送らず、系列の地元テレビ、フランス海外ネットワーク(RFO)が作成したものを流したとのことです。

開廷まで法廷内の撮影が許された。
開廷まで法廷内の撮影が許された。

そうこうしているうちに8時になり、裁判長と4人の陪審員が入廷しました。裁判長は開口一番、「ポリネシアやフランス、そして海外のメディアが取材に来られていますが、開廷まであとわずかですので、開廷したら取材を終了してください」と述べ、この裁判が内外の注目を集めていることを充分意識しているようでした。さらに裁判長は、「今日はたくさんの人が傍聴に見えていますが、大変申し訳ありませんが、傍聴席は200席しかありません。ですので、本法廷では入口の扉を開けたままにして、外にいる人にも審議が聞けるようにします」と、傍聴者に対する異例の配慮を行いました(ただ、開廷後もホールのガヤガヤが納まらず、傍聴席の人たちが「うるさいなあ」という顔でしきりに扉の外を見るので、しばらくして裁判長がやむを得ず扉を閉めるよう言いました)。

3年越しの裁判

今回の裁判は、労災認定が拒否されたことに対して、その取り消しを求める裁判ですから、いったんは労災認定を申請している必要があります。しかし、これまでフランス政府は核実験の被害を一切否定しており、元核実験場労働者がガンなどの病気になって地元の病院へ行っても、フランス人の医師が放射線被曝との関連を口にすることはなかったと言います。実際、今回の原告のひとりで、急性白血病になった元労働者レイモン・タハアさんは、地元のフランス人医師に「犬を飼っているでしょう。その犬のせいですよ」と言われたそうです。こんなデタラメな医者ばかりですから、被曝との関連を疑う元労働者は多くありませんでしたし、たとえ疑って労災申請してもどうせムダ、へたをすると当局に睨まれて仕事をクビになるかも知れないという恐れから、労災申請する元核実験労働者は皆無でした。

このため、裁判闘争は、まず労災を申請するところから始まりました。2005年4月20日に、夫を白血病で亡くした未亡人のシャンタールさんが「社会予防金庫(CPS)」[2]に最初の申請をしたのを皮切りに、書類の揃った人から順次労災申請を行いました。CPSは、ほぼ2年後にすべての元労働者に対して順次「申請却下」の判定を通知してきました。理由は「災害の発生から2年以内に申請しなければならない」としているポリネシアの労災制度の基準を満たしていない、というものでした。

これは予想された判定でしたので、通知受領後、テッソニエール弁護士が順次パペエテ労働裁判所に労災不認定の取り消しを求める訴状を提出しました。これを受けて、裁判所で事実関係の確認を行う事務的な審議が08年4月7日から09年4月までに7回行われました。そして、原告と被告双方の主張を初めて闘わせる本来の裁判が、09年4月27日の最終弁論なのでした。日本の裁判制度とだいぶ違うので、最初は事情がつかみにくいですが、被害者の人たちがこの日を重視し、大きなイベントにしようと努力した背景には、こういう理由があったのです。

あくまで抗弁を続ける国側

入廷する裁判長と陪審員。
入廷する裁判長と陪審員。

いよいよ審議が始まりました。裁判長は、審議の進め方として「8人の原告のうち、まずレイモン・タハアさんのケースを全体的に審議し、残りの7人についてはタハアさんと異なる部分についてのみ審議したい」と提案しました。これは、タハアさんのケースが他の原告よりも重要だからということではなく、純粋に重複を避け、時間を節約するための便宜上の措置とのことです。というのは、原告が8人と多いため、場合によっては最終弁論が4月27日一日で終わらず、翌日にまで延長される恐れがあったからです。

判事の前の机には、2人のタヒチ語の通訳さんが控えていて、フランス語があまり得意でない原告と判事の橋渡しをします。被告の国(国防省と原子力庁)と当時の下請け民間企業側で出廷しているのは、5、6人の弁護師だけです。

まず、タハアさんが証言台に立ち、裁判長が働いていた場所や時期、職業と病気との関連を意識したのはいつか、労災申請はいつ出したか、など基本的な事実関係を原告本人に確認します(書類上では以前の事務的な審議で提出済み)。証言の最後に、請求する賠償金の金額が示されます。タハアさんの場合は約5,000万CPF(約6,000万円)でした。

ひととおり証言が終わり、被告側弁護士が弁論を行います。「原告の申し立ては、労災の発生から2年以内に労災申請しなければならないという規定に違反しているので無効」、「国防省の被曝記録では、被曝線量ゼロとされている」、「原告が言っている就労期間は、雇用した下請け企業の記録と食い違っている」、「そもそも就労記録がないので無効」…といったものがほとんどで、責任を免れるためにあらゆる言い逃れをしてきます。これに対して、テッソニエール弁護士は「原告は汚染区域で使われていたトラックのパンク修理や部品交換などを、防護服も支給されずに長期間に担当していた。被曝記録は矛盾が多い」、「放射線障害は通常何年も経った後発病する。現行の労災規定は、そもそも放射線障害を想定していないが、被曝による被害があり得たことは現在国防省も認めているのだから、労働者の権利を護るという労災制度本来の目的に鑑みて拡大解釈が必要」、「そもそも核実験被害の補償をめぐる挙証責任は、原告側ではなく、被告側に帰すべき」といったふうに、国側の言い逃れをひとつひとつ論破していきます。

同じように、他の7人の原告についても一人ずつ審議が行われました。原告側弁護士は、テッソニエール弁護士とタヒチの弁護士のわずか2人。多数の被告側の弁護士を向こうに回して、休憩もそこそこに長時間にわたる弁論をほとんどテッソニエール弁護士ひとりで続けて行きます。さすが、辣腕弁護士として名を馳せるだけのことはあると納得できます。

8人の原告すべての審理が終わったのは、この日の夜8時前。モルロアと私たち協会では、最終弁論終了後、被害者がつくった「太平洋核実験記念碑」まで行進する予定でしたが、もはや夜も更け、裁判所に残っている元労働者・支援者も少ないこともあり、やむなく中止になりました。

12時間に及んだ最終弁論を終えて出廷した原告とテッソニエール弁護士。
12時間に及んだ最終弁論を終えて出廷した原告とテッソニエール弁護士。

ポリネシアの歴史に新たなページ

翌4月28日の朝、モルロアと私たち協会は前日の裁判についての記者会見を行いました。

最終弁論の記者会見:「今回の裁判は、ポリネシアにとって歴史的な事件になるでしょう」とローラン・オルダム・モルロアと私たち協会会長。
最終弁論の記者会見:「今回の裁判は、仏領ポリネシアにとって歴史的な出来事になるでしょう」とローラン・オルダム・モルロアと私たち協会会長。

まず、ローラン・オルダム会長が挨拶に立ちます。

2009年4月27日という日は、仏領ポリネシアにとって歴史的な日になるでしょう。8人のフランス核実験被害者が、フランス政府を裁判で裁くために立ち上がったのです。しかし、この8人のうち、いま生き残っているのは3人しかいません。私たちは、もうこれ以上待っていられません。核実験がもたらす被害をすべて白日の下に曝し、国家の責任を認める必要があります。私たちの疑問へのはっきりした回答が必要なのです。そのために、私たちは、裁判所が労災を認め、国家による弁解の余地のない誤りがもたらした被害の補償を命じるよう要求します。

続いて、テッソニエール弁護士が最終弁論の内容についてコメント。

裁判は、全体としていい条件の下で行われたと思います。確かに、原告が発言までに長時間待たされたり、ふつうの人に分かりにくい法律用語が飛び交い、被告側の弁護士が原告の気持ちを踏みにじるような発言をしたりと、原告や傍聴していた多くの人にとって不満の多い裁判だったと思います。ただ、通常の裁判の常識では本来不可能だったはずの裁判が、こうして最終弁論までたどり着けたことは注目に値すると思います。2年という労災申請の期限はとっくに過ぎていて、当初は『こんな裁判、できっこない』と言われました。被告側もそこを突いてきているわけで、裁判所が通常通り被告側の主張を受けいれていたら、提訴自体が受理されていなかったかも知れません。

しかし、きのう、あれだけ審理が長引いたということだけを見ても、裁判所が原告側の主張を重く受け止めていることが分かると思います。裁判長は、長時間をかけて書類を検討し、最終弁論で争点がはっきりするよう万全の準備をしましたし、8人の原告すべての書類を細かく確認していました。また、この裁判を弁護士の間だけの手続きに終わらせず、被害者自身の裁判になるよう、原告本人が発言できる機会をできるだけ多く取るような配慮も見られました。

ですから、難しい条件の下で裁判ができただけでも意味がありますが、裁判の中身についてもかなり充実した審議が行われたと言えると思います。

フランス本国では、ちょうどいま、国防省の「核実験被害者補償法案」が審議されています。われわれは歴史的な時期を迎えています。

国際的な連帯の印として広島と長崎の石を贈呈

最後に、国際的な支援を代表して、長崎の奥村さんが次のような連帯の挨拶を送りました。

私は、長崎から来ました、被爆者の奥村英二と申します。

私は、2002年にタヒチを初めて訪れて以来、いつもみなさんの闘いを見守り、日本の人たちにみなさんの運動を紹介してきました。

2002年に「モルロアと私たち協会」の第2回総会で初めてここに来たときは、フランス核実験によって、わたしたち広島・長崎の被爆者と同じ苦しみを強いられている人たちが、このポリネシアにたくさんいることを知りました。同時に、フランス政府がその苦しみを無視し続けていることに強い怒りを感じました。そして、私たちと同じ苦しみをしている核実験被害者の補償を実現させるために、日本でもできるだけのことをしようと思いました。

同じ2002年の8月に、フランス、ポリネシア、そしてアルジェリアのフランス核実験被害者の代表が、初めて広島で出会い、連帯の絆が結ばれたことを非常に嬉しく思いました。ここにおられる、「モルロアと私たち協会」会長のローラン・オルダムさんや元核実験労働者のレイモン・タハさん、核実験問題専門家のブリュノ・バリオさんも広島会議に来られ、長崎でフランス核実験被害者の現状を話され、日本の新聞やフランスのル・モンド紙でも大きく報道されました。

2度目に私がここタヒチを訪れたのは2006年の「核実験被害者40周年国際会議」のときでした。私は、この会議で、オスカー・テマル大統領の下でポリネシア政府と被害者が一体となって被害者の権利回復をフランス政府に対して求めていることに強く感動し、日本に帰って、政権が変わることの素晴らしさを報告しました。

そして今回、3度目の訪問で、みなさんが裁判という新しい闘いを始められたことに強い期待を持っています。みなさんの人間としての正当な権利を、民主主義の発祥の国であるフランスの司法が、フランスだけでなく、ポリネシアでも認めることを、心から願っています。

このように、これまで着実に運動を進めてこられたみなさんの努力を、日本でヒバクシャ運動を行う私たちは、常に見守っています。

しかし、核の被害を国に認めさせ、補償されるためには、粘り強い取り組みが必要です。私たち広島・長崎の被爆者は、被爆後10年以上無視され、放ったらかしされた末に、苦しみの中から運動を起こし、一歩一歩政府に補償を認めさせてきました。被爆から65年近くを経た今も、国家の責任と謝罪を求める裁判を続けています。

先日フランス国防相が発表した「核実験被害者補償法」が不充分なものであることを見てもわかるように、みなさんの権利を本当に回復するためには、なおいっそうの努力が必要です。

そして、奥村さんは、日本から持ってきた大きな石を2つカバンの中から取り出しました。

私たち日本のヒバクシャは、この同じ闘いをみなさんいっしょに続けていきたいと思います。その私たちの決意の印として、今回、太平洋の文化に則り、広島と長崎の石をここに持参しました。これらの石は広島と長崎の爆心地から持ってきた石で、私たちの65年間の私たちの苦しみと闘いを見守ってきた石です。これを太平洋のヒバクシャを忘れないためにみなさんがつくられたこの記念碑に捧げます。

このような核の悲惨を二度と繰り返さないために、核兵器のない世界をめざしてともに戦い続けましょう!

「『同じ苦しみを受けてきた』ふたつの民衆を結びつける絆として、広島と長崎の爆心地の石をモルロアと私たち協会に贈呈した長崎の被爆者、奥村英二さん。」(Les Nouvelles de Tahiti 09.04.29)
「『同じ苦しみを受けてきた』ふたつの民衆を結びつける絆として、広島と長崎の爆心地の石をモルロアと私たち協会に贈呈した長崎の被爆者、奥村英二さん。」(Les Nouvelles de Tahiti 09.04.29)

奥村さんがテーブルの上に置いた2つの石に、報道陣のカメラが集まります。

翌日、同行したNHK取材班の手伝いでパペエテの街を行き来していると、街の人たちがしきりに私の顔を見てニヤニヤしています。最初は自意識過剰かなと思っていましたが、道路を走りすぎる2人乗りバイクの人が手を振ってきたり、通りの子供やお店の店員さんが「見たよー」と言ってきたり、どうも様子が変です。何のことかといぶかりながらホテルへ戻ると、受付のおばさんが開口一番「あらあなた、テレビで見たわよ。どのチャンネルでもみんな出てたわよ!」——やっと理由が分かりました。奥村さんにそのことを話すと、「私もいきなり『ナガサキー!』と声をかけられましたよ」とのこと。あとでニューカレドニアの知り合いからも「ニュースで見たよ」とメールをもらいました。フランス海外ネットワーク(RFO)を通して、フランスの海外県・領土全体に今回の裁判のニュースが流されていたようです。それにしても、一様に言えるのは、どの人もこのニュースを好意的に受け取っていることが有り有りと伝わってくることです。核実験の話をすると、みんな眼を逸らし、うつむき加減に硬く口を閉ざしていた2002年の頃との違いを改めて実感させられました。

とくに、日本とポリネシアの連帯を象徴する石を贈呈したことは、ポリネシアの人たちに強い印象を与えたようです。後日、元核実験労働者の夫をガンで亡くしたという未亡人から奥村さん宛に次のようなメールが届きました。

私は、長崎の被爆者、奥村英二さんの写真を拝見して、とても心を動かされました。奥村さんと知り合ったのは、2006年7月にパペエテで行われたフランス核実験40周年のときでした。私はそのときの奥村さんの証言に強く胸を打たれました。証言の間も、奥村さんの顔は輝きを失わず、深い思いやりと威厳に満ちていました。あのときの奥村さんを、私は一生忘れないでしょう。

奥村さんが広島と長崎の石を贈ってくださったことは、とても象徴的なことです。それは、同じ40周年記念式典で、太平洋核実験記念碑のなかにあるポリネシアの島々をかたどった石柱の側に、フィジー島から持ってきた火山岩を置いてくださったフィジーの元核実験労働者、ポルさんが行った行為に連なるものです。それは、核兵器がもたらす同じ苦しみを生きてきた世界の人々の本当の連帯を証立てる行為なのです。パペエテの太平洋核実験記念碑は、その意味で大きな広がりを持つことになったのです!

もし、どなたか私のこの思いを奥村さんに伝えてくださる方があれば、パペエテ裁判で奥村さんがしてくださったことにとても感銘を受けたことをぜひ伝えてほしいと思います。奥村さんは、ポリネシアの仲間に向けて、連帯する意思をまた新たに示してくださいました。奥村さんの勇気と決意への限りない感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。こんな素晴らしい方が私たちの闘いを支えてくださっているとは、何という幸せでしょう!

マリージョー

【注】———-

[1]これは、核実験被害者への固有の救済制度がまだ存在しないフランス(09年5月現在、フランス国防相が「核実験被害者補償法案」を提出・審議中) では、核実験に関連した業務が原因で生じた疾病や障害、死亡も、通常の職業病とみなして労働災害補償を適用するしか補償の道がないからです(軍人の場合 は軍人恩給による補償になります)。フランスでは、訴訟案件の種類によって裁判所が細分化されており、労働災害の不認定に対する取り消しを求める訴 訟は、フランス本国では社会保険裁判所が、仏領ポリネシアでは労働裁判所が扱うことになっています(ただし、その場所はたいてい他の裁判所と同一)。
[2]仏領ポリネシアで健康、年金、労災など、社会保障一般を扱う機関。管理運営はポリネシア自治政府が担当。

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